特別展「巌流島」出品資料紹介。
こちらは、昭和30年代頃に作成されたとみられる「下関市街図」(下関市立歴史博物館蔵)。巌流島を見てみると、右側と左側に分かれており、中央が入江のようになっています。また、右側の南端には灯台があることが示されています。
実は、元々江戸時代の巌流島は、基本的に右側部分だけの細長い形でした。
江戸時代の巌流島(本資料は展示していません)
この細長い形が船に似ていることなどから、船島と呼ばれていたようです。彦島に伝わっていた古い話によると、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘はこの細長い島の南よりの場所だったともいわれます。ここには敗れた小次郎の墓もあったようです。
大正時代頃から始まった本格的な埋立て工事によって、左側の部分が造成され、さらに昭和30年代後半頃には中央の入江も埋め立てられて、巌流島はおおよそ現在の形になりました。これらの工事によって、小次郎の墓も行方不明となってしまったようです。
このような島の変遷は、特別展図録でも詳しく紹介しています。ぜひこちらもご覧ください!
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