2024-09-17 | 資料調査 皆さんこんにちは。2024年9月7日(土)、下関市吉見の龍王神社において、熊本大学教授の春田直紀先生を中心とした調査団による資料調査が実施され、下関市側からは、下関市立大学准教授の藤井崇先生とともに、歴史博物館の学芸員も参加しました。調査の対象は、龍王神社が所蔵する古文書や棟札で、鎌倉時代の塩田に関する古文書や、大内氏や毛利氏といった戦国大名たちの書状などが含まれています。これらの古文書については、すでに『下関市史』や『山口県史』といった刊行物で知られていましたが、今回の調査で新たに判明したこともあり、今後の研究が期待されるところです。下関の歴史といえば、源平の戦いや幕末の動乱が広く知られてい... |
2024-09-15 | 特別展「攘夷と海峡」資料紹介5 特別展「攘夷と海峡」より、注目資料を紹介します。今回は、「イラストレイテッドロンドンニュース」です。イラストレイテッドロンドンニュースは、1842年に創刊されたイギリスの週刊新聞で、世界で初めて、イラストを中心に紙面を構成したことで知られます。当時ロンドンだけでも約80社あった新聞社のなかで急速に販売部数を伸ばし、1863年には週に31万部を売り上げました。黒船来航事件が起こった1853年からは、日本に関するニュースも多く掲載されるようになり、日本と欧米諸国との通商等を巡る交渉や、各地の風景、そして戦いについてなど、様々な情報が報じられました。 今回展示している資料は、下関戦争開戦2... |
2024-09-03 | 特別展「攘夷と海峡」資料紹介4 特別展「攘夷と海峡」より、注目資料を紹介します。今回は、占拠された前田低台場・高台場写真です。<占拠された前田低台場写真><占拠された前田高台場写真>前田台場は、文久3年(1863)の攘夷戦の際、下関海峡沿岸に築造された台場のひとつです。同年のフランス軍艦による報復攻撃によって破壊されましたが、下関戦争時には高台場を増築して二段構えとなっていました。 長府藩の記録によると、下関戦争時には、同地に上下あわせて14門の大砲が設置されていたといいます。守備兵には、総督赤根武人以下奇兵隊士らが配置され、戦いに臨みました。しかし、連合艦隊の猛攻を前に、長州藩側の台場は次々と陥落。前田台場もまた... |
2024-08-24 | 特別展「攘夷と海峡」資料紹介3 特別展「攘夷と海峡」より、注目資料を紹介します。今回は「砲弾鋳型」(山口県埋蔵文化財センター蔵)です。 本資料は萩の郡司鋳造所跡の出土品で、砲弾を造る際に使用された鋳型です。右は球形、左は椎の実形の砲弾の製造に用いられました。 郡司家は、元来萩藩の鋳物師として金属製品を生産した家で、一族からは優れた砲術師も多く輩出しました。天保年間頃、日本で欧米諸国の接近に対する危機感が高まると、同家は藩の命令に応じ、大砲の鋳造・改良や、長崎等における技術習得に取り組むこととなります。嘉永6年(1853)のペリー来航後には、郡司喜平治の自宅が藩の大砲鋳造所に指定され、本格的な洋... |
2024-08-15 | 特別展「攘夷と海峡」資料紹介2 開催中の特別展「攘夷と海峡」より、注目資料をご紹介します。今回は「奇兵隊袖印」(山口県立山口博物館蔵)です。 袖印とは、戦いの際、服の袖(肩部分)につけた布で、所属や氏名を記し、敵・味方を見分けるなどの目的で使用されました。本資料は、奇兵隊士の柏村晋が用いたものです。 奇兵隊が結成されたのは、長州藩が下関海峡での外国船打ち払いを行った翌月である文久3年(1863)6月のこと。同月初頭、アメリカの報復攻撃を受けた後、萩藩主毛利敬親は同藩士高杉晋作を召し出し、下関の防備再編を命じました。直ちに当地へ入った晋作は、攘夷実行のために集まっていた浪士らを集め、奇兵隊を結成... |