皆さん、こんにちは!
現在開催中の特別展「天下人との邂逅ー海峡の戦国史 第3章ー」のおすすめ資料を紹介する記事の第6弾をお届けします。
今回の資料は、長府藩初代藩主毛利秀元の実父である毛利元清に仕えた奉行人たちが出した書状で、山口県文書館の所蔵品です。
宛先は伊勢神宮の御師(おし/おんし)であった村山武慶で、御師とは自らが所属する社寺の信者や参詣者のために祈祷を行い、参拝・宿泊を世話する人のことです。
書状の内容は、元清の奉行人たちが、元清の名字に関する武慶の疑問に回答したものです。
武慶は、元清が備中国小田郡猿掛城を居城とするようになった頃、「穂田」と名乗るようになったため、改名の理由について尋ねたのでしょう。
元清の改名については、江戸時代以来、猿掛城の旧主であった庄氏が「穂田」とも称したことから、元清が庄氏を継承したことによると考えられてきました。
しかし、元清の奉行人によれば、元清が改名したのは、安芸国から備中国に移ったことと、毛利家の当主である輝元への遠慮が原因であったようです。
「穂田」は、猿掛城の所在地の地名であったことから、備中に移り、猿掛城を居城としたことを機に、地名を冠して「穂田元清」と名乗り始めたのでしょう。
この改名に関して、前期には同じ内容を説明する元清自身の書状を展示していましたが、11月6日(水)からは、
この書状を展示していますので、ぜひ博物館で実物をご覧ください。
なお、今回の展示にあたって、展示図録(1,200円)を刊行し、博物館受付で販売しています。
展示図録には、元清の書状とともに奉行人の書状の写真も掲載していますので、そちらもぜひお買い求めください。