開催中の企画展「幕末群雄伝―下関に集った志士たち―」より、注目資料を紹介します。今回は「中山忠光和歌短冊」です。
中山忠光は、弘化2年(1845)年、公家の中山忠能の子として京都で誕生。後に、中山家を訪れた萩藩の久坂玄瑞や土佐藩の武市瑞山、吉村寅太郎らとの交流などを通して、尊王攘夷の思いを強く抱くようになりました。
文久3年(1863)3月には、中山邸を出奔。攘夷戦勃発直前の下関に入って、久坂玄瑞ら光明寺党の首領となり、自ら台場へ赴くなど攘夷戦に携わります、
同年6月には帰京しますが、8月に再度出奔し、吉村寅太郎らとともに、天皇の大和行幸の魁となるため大和国にて挙兵。五條代官所を襲撃して拠点としましたが、その後高取藩と交戦して敗走し、長州へと落ち延びました(天誅組の変)。同年11月より長府藩の保護下で潜伏生活に入りましたが、元治元年(1864)、田耕村にて暗殺されてしまいます。
本資料は、中山忠光が短冊に自らの次の和歌を記したものです。
<夷狄らと 友に東夷も たをさねハ いかて御国の けかれすゝかん>
「夷狄」(外敵)とともに「東夷」(京都の公家らが東国の武士のことを呼んだ語)を打ち払い、天皇の治める御国の穢れをすすがねばならないという決意が詠まれており、忠光の原動力となった尊王の強い思いをうかがうことができます。