開催中の企画展「幕末群雄伝―下関に集った志士たち―」より、注目資料を紹介します。今回は「高杉晋作書状 大田市之進ほか7名宛」です。
こちらは、慶応元年(1865)2月23日付けの高杉晋作の書状で、奇兵隊など諸隊の隊長たちに宛てたものです。
前年の元治元年(1864)12月、晋作は第一次長州征討において幕府に恭順する方針をとった萩藩政府に反発し、功山寺で決起。これをきっかけに慶応元年1月には萩藩政府と諸隊が争う内訌戦が起こりました。この戦いの後、萩藩では政府員の人事が刷新され、やがて幕府が領内に侵攻した場合には抗戦することを決定し、軍事改革を進めることとなります。
本資料は、内訌戦が収束しつつあった頃に記されたものです。晋作は、今後の課題は幕府や、外国の脅威への備えであることを述べ、諸隊にも手分けしてこれらに尽力するよう訴えています。
また、この頃晋作は、幕府や外国に対抗するため、長州藩の富国強兵を目指し、そのための方法のひとつとして下関の開港を考えていました。この書状にも、赤間関(下関)を開港すべきという意見が書かれています。また「五大洲中に防長の腹を推出して大細工を仕出さねば大割拠は成就不致ならむ」とも記しており、世界を見据えた晋作の壮大な構想をうかがうことができます。