開催中の特別展「花凛々と―下関ゆかりの女性たち―」より、注目資料をご紹介します。
今回は、「伊万里焼菓子鉢」(当館蔵)です。
こちらは、高杉晋作の遺品と伝わる資料で、晋作の没後、恋人であったうのが所蔵していました。
うのは晩年の晋作に付き添った女性ですが、その出自については詳しくわかっていません。
慶応元年(1865)4月、晋作が四国に亡命した際に同行し、帰国後、下関で晋作とともに暮らしました。慶応2年8月下旬以降、晋作が下関で病気療養生活に入った際にも、付き添って看病をしています。
慶応3年4月、晋作は新地の林家で没し、遺体は遺言によって吉田(現下関市吉田)に運ばれました。この後、うのはしばらく晋作と過ごしていた櫻山の草庵に住まい、剃髪して梅処と称します。また、明治2年(1869)に、奇兵隊軍監などを務めた山縣有朋より吉田の晋作の墓傍にあった草庵を譲り受け、晋作の菩提を弔う生活に入りました。
梅処には、晋作の友人らから再婚を勧める声もあったといいます。しかし、彼女はそれを断り、自らの意思で仏門に入って生きることを決意。明治14年(1881)には、功山寺で正式な得度を受けました。明治17年には、毛利家や山縣有朋・井上馨らの寄附によって建立された東行庵の初代庵主に就任。明治44年に68歳で没するまで、晋作の墓を守り続けました。