現在の企画展に関連して、旅や下関の名所旧跡についてご紹介する連載記事ですが、第3回目は、中世の旅についてご紹介します。
交通路の未整備をはじめ、何かと旅人に困難が多かった古代に比べ、中世になると、少しずつ旅の利便性が高まっていきます。
武家政治が展開するなかで、道や橋などのインフラの整備は武家が担うようになりました。
たとえば15世紀には、大名の大内氏が命令を発した際、その命令の承諾書の提出期限が定められていることから、大内氏の本拠である周防国山口と領国各地を結ぶ交通網が整備されていたことがわかります。
旅人たちは、こうした交通網整備の恩恵を受けて各地を旅していたのです。
さらに、中世には各地に地方都市が形成され、経済圏を形成していました。
地方都市には商人や職人が集住しており、商業活動が盛んになります。
現在の長府金屋町や豊北町の肥中には、14世紀半ばには鋳物師たちが定住しており、次第に町場が形成されていたことがうかがえます。
こうした場所では、宿が営業するようになっており、旅人たちが疲れを癒していました。
大内氏の法令では、不審人物を見つけ、それが旅人だった場合には、宿で身元を確認するよう命じているものがありますから、中世の宿が後代に見られるような身元保証機能を担っていたことがわかります。
以上のように、中世になると、次第に旅をしやすい環境が調えられていきました。
ところが、旅の妨げになるようなものもありました。
古代や近世の関所は、公権力が設置するもので、通行者のチェック機能を担っていました。
こうした関所に対して、中世の関所の設置者は各地の領主などで、彼らは関所で通行料を徴収していたのです。
関所の設置には規則がありませんでしたから、場所によっては短い区間に大量の関所が設置され、通行の妨げになっているようなこともありました。
こうした関所の濫立を問題視したのが、織田信長や豊臣秀吉で、彼らは商業活動の妨げにならないよう、各地の関所の撤廃を進めることになるのです。