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古代の旅の記録

2023-06-17 (Sat) 09:18
現在の企画展に関連して、旅や下関の名所旧跡についてご紹介する連載記事ですが、第2回目は、古代の旅の記録についてご紹介します。
 
前回の記事でも少しふれましたが、古代の旅の様子を記したものに、『土佐日記(とさにっき)』があります。
 
『土佐日記』は、歌人として有名な紀貫之(きのつらゆき)が記したものです。貫之は、延長8年(930)から承平4年(934)にかけて、土佐国(現在の高知県)に国司として赴任します。任期を終えた貫之は、都へと帰ることになりますが、この帰路の旅について、女性に仮託して日記風に綴ったのが、『土佐日記』です。「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり」で始まる冒頭部分は有名ですから、ご存知の方も多いのではないでしょうか。
 
貫之一行は、船で都に向かいますが、当時の船は天候の影響を強く受けたため、同じ場所に何日も留まることがありました。『土佐日記』には、同じ場所にとどまり、空しく日々を過ごしている様子が散見します。
 
また、「男でも旅に慣れていない者は心細い」「女は船底に頭を押し当て、声を上げてただ泣く」という記事があり、人々が旅を不安に思っている様子がわかります。さらに、海賊が追って来るという噂についての記事もあり、航海が危険であったことを、うかがうことができるのです。
 
『土佐日記』のような日記風の作品とは異なりますが、ここで下関に関する旅の記録をご紹介しておきたいと思います。
 
平安時代末期に成立したと考えられている『本朝無題詩(ほんちょうむだいし)』という漢詩集に、「著長門壇即事」という題の漢詩が収められています。
 
これは、海路で都に向かう釈蓮禅という人物が、「長門壇」に寄港した際の作品なのですが、この漢詩に付けられた注には、遠岸に神社があり、それが「当州(=長門国)」の二宮と書かれています。
 
この神社は、長府の忌宮神社のことを指しており、満珠・干珠を眺めたという記事もあるため、釈蓮禅の乗った船は現在の豊浦高校のグラウンド付近に停泊したと考えられます。ここで注目されるのは、釈蓮禅が「長門壇」に寄港したと書いていることです。
 
実は、南北朝時代を訪れた武将今川了俊も、この付近で満珠・干珠を眺めながら、「此うらを壇うらといふ」と書いており(『道ゆきぶり』)、豊浦高校のグラウンド付近が、「壇」あるいは「壇うら」と呼ばれていたことがわかります。
 
旅人にとっては何気ない記述でも、当時の旅の様子や地名の由来など、旅の記録は我々に多くの情報を与えてくれるのです。
 
なお、「壇ノ浦(壇之浦、壇浦)」という地名の由来については、梅光学院大学名誉教授の宮田尚さんが指摘されていますが(宮田尚「壇浦伝承を巡って」〔松尾葦江編『海王宮―壇之浦と平家物語』三弥井書店、2005年〕)、今回の企画展の関連講座のうち、1回目の講座でもお話ししようと思っています。
 
本日(6月17日)の朝の時点で、1回目の講座の予約は6月28日(水)の分が少し残っているだけですが、講座開始後には資料を販売しますので、よろしければそちらをご参照ください。

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