今回のブログでは、現在開催中の特別展「歌を詠む武士」に関連して、武士と歌に関するエピソードをご紹介します。
本日取り上げるのは、源頼朝の和歌についてのエピソードです。
源頼朝といえば、鎌倉幕府の初代将軍として知られています。
一生の少なくない期間を関東で過ごした頼朝ですが、父とともに挙兵して敗北し、伊豆に流されるまでは、京都で生活し、宮中に出仕していました。
そうした環境から、頼朝は幼い頃から和歌に親しんでいたと考えられています。
ある時、歌人として知られた高僧慈円が、頼朝に次のような和歌を贈りました。
思ふ事 いな陸奥(みちのく)の えぞ言はぬ 壺の碑(いしぶみ) 書き尽くさねば(『拾玉集』)
大意としては、「自分の思っている事を全て言い表すことはできません。陸奥国の蝦夷の壺の碑のように、心の底まで文に書き尽くすことはできないのですから。」といったところでしょうか。
なお、「壺の碑」は陸奥国の歌枕で、古代に坂上田村麻呂が蝦夷征伐で文を記した巨石のことです。
慈円は、鎌倉にいる頼朝が、京都に住むことを望んでいたと言われていますから、この和歌には、「思いを文に書き尽くすことはできないので、直接お会いしたい(=京都に移り住んで欲しい)」という願いが込められているのかもしれません。
この和歌のポイントは、「陸奥」や「えぞ(蝦夷)」といった東北の地名を歌に詠み込んでいるところで、「征夷」大将軍である頼朝を意識して詠まれた歌であることが、見て取れます。
これに対し、頼朝は次の和歌を返しています。
陸奥の 言はで忍ぶは えぞ知らぬ 書き尽くしてよ 壺の碑(『新古今和歌集』)
大意としては、「陸奥国の磐手郡、信夫郡の名のように、言葉に出さずに隠していると、貴方の思いが分からないので、全て壺の碑ならぬ文に、心の奥底まで書き尽くしてください。」といったところでしょう。
頼朝は、文に書き尽くすことができないとする慈円に対して、「しっかりと文を書けば、思いは通じる(=京都に住まなくても、手紙で思いは通じる)。」と述べ、慈円を軽くいなしているのです。
頼朝は、慈円の歌意を理解し、慈円が詠み込んだ「陸奥」や「蝦夷」に「磐手」と「信夫」という地名を加えたうえで、受け流しており、頼朝の返歌を見た慈円は、その技量に驚嘆したといわれています。
参考文献:上宇都ゆりほ『コレクション日本歌人選047 源平の武将歌人』(笠間書院、2012年)