特別展「攘夷と海峡」より、注目資料を紹介します。
今回は、「某書状控」です。
元治元年(1864)8月5日に開戦した下関戦争は、連合艦隊側の優勢に進み、同月8日、長州藩は休戦・講和を申し入れることとなりました。
藩政府の決定の元で行われた講和交渉ですが、第1回談判後、反対意見も多くあがったようです。
例えば、元治元年8月に奇兵隊など諸隊が提出した嘆願書では、藩の考えに従って隊士一同を説得し戦場から引き下がったが、講和は「一時之御権謀」と考えており、後日「大攘夷」を実行しなければならないと訴えられており、隊士の多くが戦いの継続を望んだ様子がうかがえます。
また、高杉晋作とともに講和談判に携わった伊藤博文や井上馨の回想によれば、彼らは反対派に命を狙われ、晋作と伊藤は第2回談判を欠席せざるをえませんでした。
今回紹介する資料は、藩内の講和反対派に向けて、萩藩世子の毛利元徳が記したと考えられる書状の写しです。
これまで長州藩は、尊王の大義のもとに、攘夷を実行してきたものの、下関戦争直前の「禁門の変」で朝敵となり、攘夷は「一己ノ攘夷」(長州藩のみが訴える攘夷)となってしまったという実状が述べられ、連合艦隊との講和は、外患を緩め、尊王を貫徹するためであるとの説明がなされています。
藩主父子は、反対派の鎮静に努めながら、14日に家老の宍戸備前や、藩士毛利登人、高杉晋作らを談判に派遣。長州藩は外国船の海峡の自由航行、砲台の新築・改修禁止、賠償金の支払い(ただし詳細は江戸で協議)に合意し、下関戦争は終結することとなりました。