開催中の特別展「花凛々と―下関ゆかりの女性たち―」より、注目資料をご紹介します。
今回は、「田上菊舎自画賛 菊図」(豊浦小学校教育資料館蔵 当館寄託)です。
田上菊舎は、宝暦3年(1753)、長府藩士田上由永と妻たかの長女として、現在の下関市豊北町田耕に生まれました。本名は道といいます。
16歳で田耕村の村田家に嫁ぎましたが、24歳の時、夫が死去。子のなかった道は、長府に移っていた実家の田上家に戻りました。喪に服していた道でしたが、やがて尼僧となって夫の菩提を弔うとともに、俳人として生きることを決意します。
天明2年(1782)、30歳の時、美濃国で美濃派俳人朝暮園傘狂に弟子入り。この年の4月には、松尾芭蕉の「奥の細道」の旧跡を逆ルートで辿る旅に出発し、俳諧修行を開始します。その後も、生涯の大半を旅に生き、東北から九州まで、全国各地を自らの足で訪ねました。
本資料は、菊舎が63歳のとき、伏見の御香宮で詠んだ句とともに、菊舎の名前の一字でもある菊の花を描いた作品です。
彼女が「菊舎」と名乗るようになったのは、安永7年(1778)のこと。俳諧の世界で生きることを志していた道は、この年の9月、長府の美濃派俳人五精庵只山から、「菊車」の号を与えられました。後に、「車」の字を「舎」に改めています。
命名した只山は「菊車」の由来について、風雅に男女の別や年齢、身分などの差別はないが、女性の俳人は稀である。有名な女流俳人である千代尼らのように、菊の車も千里にその名を走らせるように、と記しています。
名前の由来のとおり、菊舎は各地を旅し、生涯で歩いた道程は、二千里(8000km)に及ぶといいます。また、旅先で多くの人と交流し、数多の作品を残した菊舎の名は、女流文人として全国的に知られるようになりました。