企画展「串崎城―長府に築かれた幻の城」展示中の「毛利輝元書状」は、新たに博物館に寄贈された資料です!
輝元から、毛利秀元の妹である阿川に送られた書状で、慶長14年(1609)のものと推定されます。この年秀元は、輝元の依頼を受けて江戸にいた萩藩初代藩主毛利秀就の後見役となりました。
秀元の江戸出発に先立って、輝元は阿川に
「あなたのことは承りました」
「あなたのことは少しもおろそかにしません」
「忙しかったのです」
「あなたをいいかげんに思ってはいません」
と切々としたためています。
秀元が江戸に滞在して国元を不在するため、輝元は阿川の不安を解消しようとしているようです。ちなみに輝元は、秀元に対しても阿川を疎かにしないと伝えています。
関ヶ原の合戦後、毛利元就の子供世代生き残りであった毛利元政・毛利元康・小早川秀包が死去。毛利一族は若返りました。輝元は、一族の結束を図り秀就を支える体制作りに尽力します。
そのなかで、輝元が秀元の妹にも心を配っていることが分かります。
なお、秀元はこれ以降、秀就後見役のほかにも萩藩政の補佐や3代将軍徳川家光の側近などを務めることになるため、ゆっくりと長府に腰を落ち着けることはできなくなっていきます。
秀元の長府不在は、串崎城の築城や城下町整備の進捗にも影響を与えたと考えられます。